松江YEGの専務理事の任期が終わりました。
つたない専務理事で皆様にご迷惑をお掛けしましたが、私自身はとても貴重な経験をさせていただきました。
中尾会長をはじめ委員長、スタッフ、理事、監事、すべてのYEGメンバーと樋野君に心よりお礼申し上げます。
所属委員会のない専務理事にとっては、委員長連絡会議がとっても大切な場所でした。各委員長さんにはいろいろと負担をかけましたが、みなさんのすばらしい人格に触れられて本当に良い仲間との出会いを感謝しています
。
3月の最後の委員長連絡会議で委員長の皆さんに話したことがあります。そのときうまく言いたいことが言えなかったので、改めて文章にしました。ここに掲載させていただき、ご挨拶とさせていただきます。一年間ありがとうございました!!
-------------------------------------------------------------------
夢の実現を阻む壁
僕は小学生のころから天体が好きで、夜空を眺めたり本を読んだりしてきました。火星や土星や金星などを「惑星」といいますが、「惑星」とは「まどう(惑う)星」という意味からきているのをご存知でしょうか。
まだ電灯のなかったころの昔の人々は、夜空をたくさん眺めていたので星の並びを人や動物に見立て星座とし物語を作りました。そして星空が一日一回転し、さらに一年で一回転、規則正しく動いていることに気づき、暦を作ったりしました。
そしてその星たちの中で、ひときわ明るいいくつかの星がそれ以外の星と違った動きをしていることにも気がつきました。しかもその星は、少しずつ一方向に移動しているかと思えば、しばらくその場所にとどまったり、逆方向に戻ったりまた前に進んだりしているので、それらの星を惑う星、「惑星」と呼びました。惑星に対して、それ以外の星は動かずに恒にその位置関係を保っているので、恒星と呼びました。
ほかの分野と同様に時代とともに天文学も発達し、科学者たちは宇宙の構造を解明したいと思うようになりました。星空が回転しているので、当然科学者たちは「恒星や太陽やほかの星たちは、地球の周りをまわっている」と考えました。
星たちの規則的な運動や周期が分かってきて科学的な説明ができることが増えてきたのにもかかわらず、惑星の「まどう動き」だけは科学的な説明ができませんでした。多くの科学者がこの天文学の謎の解明に挑み、観測をしたり模型を作ったり計算をしたり、膨大な量の努力と時間を費やしたはずです。しかし、その謎は長い間解かれることはなく、当時の科学者たちの努力は実を結びませんでした。
ずっと謎が解けなかったわけは、現代の皆さんがご存じのとおり、星や太陽が地球の周りをまわっているのではなく、地球も太陽の周りをまわっているから、です。これが天動説と地動説です。地動説が世に広まるまでの科学者たちは、地球が宇宙の中心にあることを不動の大前提とし、それをもとにすべての探求を行っていました。であれば、膨大な努力尽力が報われず惑星の謎が解けないのは当然です。
当時の科学者たちの能力や努力が足りなかったのでもなく、観測機器が不足していたのでもありません。誰も疑わないような「当たり前」と思われていた根本の知識が間違っていたのです。もし当時の科学者に本当の宇宙の構造を教えてあげることができたら、「え!そうなの??自分の人生をささげてきたのにその謎が解けなかったのは、そういうことだったのか!!俺の人生はなんだったんだ・・・」というかもしれません。
現代を生きる僕たちは、地球が動いていることを知っています。しかし、すべてを知り尽くしているわけではありません。僕たちは科学者ではありませんが、自分の人生をかけて追い求めている夢や希望を持っています。そのことでなにか根本的に間違っていることに気づかなければ、どれだけ努力をして情熱をかけても、昔の天文学者と同じようにその夢や希望が叶うことはないのです。もしそうであっても、それを知る術はないのかもしれません。
地動説を唱え始めた人たちは、長年の謎を解く鍵を示したにもかかわらず当時の常識と違うことを言ったので「地球が動いているなんて、あるわけない。どう考えたって当たり前だ。そんなことをいうやつは頭がおかしいか、悪魔に乗り移られているんだ。」と、当時の権力者にも宗教者にも地動説を信じていない科学者にも、ひどい扱いを受けました。厳しい弾圧を受け、宗教裁判で殺された人もいました。
ガリレオ・ガリレイが「それでも地球は回っている」と言ったのは作られた逸話のようですが、それが正しいか間違っているかにかかわらず、人間は自分の考えになじまない考え方を受け入れることがなかなかむずかしいことを表しています。それは言い換えれば、「人は、自分を夢の実現を阻む壁を自分の中に持っている」とも言えます。養老孟司さんのいう「バカの壁」とは、このことかもしれません。
もちろん、惑星の謎が解けなくても、当時の科学者たちの努力は何らかの形で人類に大きな貢献をしたはずです。無駄な努力はありません。そうだとしても僕は、自分の人生が終わった後に「えー!そういうことだったの?それじゃ夢がかなわないはずだ・・・・ガクーッ」となりたくはありません。自分の努力や情熱が、夢をかなえられない徒労であることに気づかずに一生を終えたくありません。
そのために、自分の可能性を制限する壁に気づいてそれを取り払えるよう自分を磨きたいです。常識を洗いなおす目や、何に対しても謙虚に学ぶ姿勢、自分になじまない考え方を排除しない柔軟さを持っていたいと思います。自らを賭した人生を送った先人たちから後世を生きる僕たちが学ぶべき大事なことはいくつもあると思いますが、この点はもっとも大事なもののひとつであると思います。人間としての先輩たちからの最大の贈り物を受け取って自分の人生をより素晴らしいものにできたら、先輩たちも喜んでくれるのではないかと思います。
2011年04月01日
2011年03月02日
レインボーシーカー
「Rainbow Seeker」
虹を探す人。
ジョー・サンプルというピアニストのかっこいい曲の名まえ。
僕はレインボーシーカー。
虹を見たいから探す。
虹がでる理屈は人並みに知ってるので、天気をみて「これはあっちの方角に虹がでるぞ」と思ったら、その方角が見える場所に行きます。
いつも注意を払っているので、虹を見る確率は結構高い。
何人かで車に乗っていても、虹を発見するのは大抵僕だ。
ちょろっとしかでない虹も、豪快に反円を描くやつも、二重のやつも、高いところから見る虹も、みんな好きだ。
いつも気にしているので、たくさん見ている。
と思っている。
一年間に虹は何回出ているのか。そのうち僕が見たのは何回か。
人が虹を見れる確率は、平均何パーセントか。
そんなの知りません。もちろん統計などないでしょう。
なので、僕が人より虹を探すのがうまいのか、ひとよりたくさん見ているのか、判断する根拠は全くありません。
でも、どうだっていい。
僕は虹が見たいので、いつも天気に注意を払っている。
注意を払っているから、たくさん虹を見れる。
また虹が見たいから、注意を払い続ける。
大事なのは、欲しいものを欲しいと思うこと。
なりたい姿になりたいと思うこと。
見たいものを見たいと思うこと。
僕はレインボーシーカー。
虹を探す人。
ジョー・サンプルというピアニストのかっこいい曲の名まえ。
僕はレインボーシーカー。
虹を見たいから探す。
虹がでる理屈は人並みに知ってるので、天気をみて「これはあっちの方角に虹がでるぞ」と思ったら、その方角が見える場所に行きます。
いつも注意を払っているので、虹を見る確率は結構高い。
何人かで車に乗っていても、虹を発見するのは大抵僕だ。
ちょろっとしかでない虹も、豪快に反円を描くやつも、二重のやつも、高いところから見る虹も、みんな好きだ。
いつも気にしているので、たくさん見ている。
と思っている。
一年間に虹は何回出ているのか。そのうち僕が見たのは何回か。
人が虹を見れる確率は、平均何パーセントか。
そんなの知りません。もちろん統計などないでしょう。
なので、僕が人より虹を探すのがうまいのか、ひとよりたくさん見ているのか、判断する根拠は全くありません。
でも、どうだっていい。
僕は虹が見たいので、いつも天気に注意を払っている。
注意を払っているから、たくさん虹を見れる。
また虹が見たいから、注意を払い続ける。
大事なのは、欲しいものを欲しいと思うこと。
なりたい姿になりたいと思うこと。
見たいものを見たいと思うこと。
僕はレインボーシーカー。
2011年02月15日
人生は、自分の思い通りになるのか(4)
ポジティブ/ネガティブは、癖です。
いままでネガティブな受け止め方をずっとしてきたのであれば、最初の内は意識しなければまたネガティブにとらえるかもしれません。
そうしたら、「あ、今、ネガティブな受け止め方だった」と、自分の行動を理解して下さい。
それさえできれば、OKです。他にはなにも必要ありません。
ネガティブな癖は自然と無くなっていきます。
注意することは、「ネガティブに受け止めた」行動を、ネガティブに受け取ることです。
「あ、今、ネガティブな受け止め方だった。なんで自分はネガティブなんだろう・・」
「なんで自分はネガティブなんだろう・・」のところが、「ネガティブに受け止めた」ことを、ネガティブに受け取っている部分です。それをしなければ大丈夫です。
昔に見た漫画のように、僕たちの肩に天使と悪魔が座っています。
天使は「ポジティブ」です。
悪魔は「ネガティブ」です。
ネガティブ悪魔は、あなたがポジティブになろうとすると、不安や常識や理屈を道具に邪魔をしてきます。
一見真っ当に見えるその論理には、実はどれにもカラクリがあり、冷静に考えればどれも説得力はありません。
しかし、ネガティブな状態のときはネガティブなものばかりに注目してしまうので、その「不安、常識、理屈」がさも正しいかのように思えます。
そうすると、ネガティブ悪魔の狙い通りネガティブな世界に引きずり込まれます。
ネガティブ悪魔の誘いは「無視」して、ポジティブ天使のささやきに耳を傾けてください。
ポジティブ天使のささやきのサインは「ワクワク」です。
ワクワクしていると、ネガティブ悪魔の誘いは聞こえなくなります!
いままでネガティブな受け止め方をずっとしてきたのであれば、最初の内は意識しなければまたネガティブにとらえるかもしれません。
そうしたら、「あ、今、ネガティブな受け止め方だった」と、自分の行動を理解して下さい。
それさえできれば、OKです。他にはなにも必要ありません。
ネガティブな癖は自然と無くなっていきます。
注意することは、「ネガティブに受け止めた」行動を、ネガティブに受け取ることです。
「あ、今、ネガティブな受け止め方だった。なんで自分はネガティブなんだろう・・」
「なんで自分はネガティブなんだろう・・」のところが、「ネガティブに受け止めた」ことを、ネガティブに受け取っている部分です。それをしなければ大丈夫です。
昔に見た漫画のように、僕たちの肩に天使と悪魔が座っています。
天使は「ポジティブ」です。
悪魔は「ネガティブ」です。
ネガティブ悪魔は、あなたがポジティブになろうとすると、不安や常識や理屈を道具に邪魔をしてきます。
一見真っ当に見えるその論理には、実はどれにもカラクリがあり、冷静に考えればどれも説得力はありません。
しかし、ネガティブな状態のときはネガティブなものばかりに注目してしまうので、その「不安、常識、理屈」がさも正しいかのように思えます。
そうすると、ネガティブ悪魔の狙い通りネガティブな世界に引きずり込まれます。
ネガティブ悪魔の誘いは「無視」して、ポジティブ天使のささやきに耳を傾けてください。
ポジティブ天使のささやきのサインは「ワクワク」です。
ワクワクしていると、ネガティブ悪魔の誘いは聞こえなくなります!
人生は、自分の思い通りになるのか(3)
ネガティブにとらえることのデメリットを考察します。
ネガティブにとらえると、望みを叶える努力をしないか足りなくなるので、達成することも成功体験も少なくなります。
成功体験が少ないので、それ以外のいろいろなことを根拠に可能性を算出しますが、その方法だと可能性はかなり低く算出されます。
その結果導き出されるのは「〜〜〜だからできない。」「〜〜しても無駄だ。」という結論です。
そうすると現実は「自分の望まない姿のまま」になり、「現実は自分の望む姿にはならない」という実体験を積みます。
その実体験からネガティブな姿勢をより強くし「現実は自分の望む姿にはならない」という確信をどんどん深めていきます。
ちょっとしたとらえ方の違いが体験を重ねるごとに大きくなっていき、「ポジ/ネガ」両者それぞれに「人生は自分の思い通りにできる!」「人生は自分の思い通りにはならない。」という確信を形成していきます。
どちらも自分の体験に基づく確信なので、確固たるものであり、強固なものでしょう。
しかし、その実態は「いままでの自分の意思による選択によって得られた結果」にすぎないのです。
であれば、自分の意志で別の選択をすれば、その確信は変わっていきます。
ご自分の体験から言って、「人生は自分の思い通りにはならない」と言い切れると言う方。
あなたが知っている現実は、実は「条件付き」です。
「ネガティブに生きる」という条件のもとにのみ成立します。
ネガティブに生きなければ、その論理は成立しなくなります。
今から、その信念に、気づいていなかった条件を付け加えてください。
「ネガティブに生きると、人生は自分の思い通りにはならない。」
ネガティブに生きるとは、自分の理想に近づくことをあきらめるということです。
理想を理想のままにしておいて、実現させるのは拒む、という生き方です。
思考は現実化し、「人生を自分の思い通りにしない」という隠れた望みを叶えます。
「人生は自分の思い通りにできる!」と信じたいけど、信じられない方。
体験すれば、わかります。
体験するには、やってみればいいのです。「やってみる」は、ポジティブです。
やってみないと、体験できません。
ポジティブに生きると、人生は自分の思い通りにできます。
「いや、そうは言っても、やっぱり人生はそんなに自由にはならないだろう。」
と、まだまだ反論があるかもしれません。
「できない理由を探す」ことや、「できないという結論を願う」ことは、ネガティブな姿勢です。
ネガティブなので、先ほどの「ネガティブに生きた時」の事実が適用され、おっしゃる通りになります。
しかし、それは「あなたがネガティブな姿勢を選択」すれば、そうなるというだけです。
ネガティブな姿勢を選択しなければ、そうはなりません。
「理屈はわかったけど、急にはポジティブにはなれない」
まず、「理屈はわかった」と、思ってくれたことが、ポジティブです。
いままでの考え方を捨て、譲歩して、歩み寄ってくれたのです。
大丈夫。
ポジティブに関心を持ってくれたら、それでもうOKです。
ネガティブにとらえると、望みを叶える努力をしないか足りなくなるので、達成することも成功体験も少なくなります。
成功体験が少ないので、それ以外のいろいろなことを根拠に可能性を算出しますが、その方法だと可能性はかなり低く算出されます。
その結果導き出されるのは「〜〜〜だからできない。」「〜〜しても無駄だ。」という結論です。
そうすると現実は「自分の望まない姿のまま」になり、「現実は自分の望む姿にはならない」という実体験を積みます。
その実体験からネガティブな姿勢をより強くし「現実は自分の望む姿にはならない」という確信をどんどん深めていきます。
ちょっとしたとらえ方の違いが体験を重ねるごとに大きくなっていき、「ポジ/ネガ」両者それぞれに「人生は自分の思い通りにできる!」「人生は自分の思い通りにはならない。」という確信を形成していきます。
どちらも自分の体験に基づく確信なので、確固たるものであり、強固なものでしょう。
しかし、その実態は「いままでの自分の意思による選択によって得られた結果」にすぎないのです。
であれば、自分の意志で別の選択をすれば、その確信は変わっていきます。
ご自分の体験から言って、「人生は自分の思い通りにはならない」と言い切れると言う方。
あなたが知っている現実は、実は「条件付き」です。
「ネガティブに生きる」という条件のもとにのみ成立します。
ネガティブに生きなければ、その論理は成立しなくなります。
今から、その信念に、気づいていなかった条件を付け加えてください。
「ネガティブに生きると、人生は自分の思い通りにはならない。」
ネガティブに生きるとは、自分の理想に近づくことをあきらめるということです。
理想を理想のままにしておいて、実現させるのは拒む、という生き方です。
思考は現実化し、「人生を自分の思い通りにしない」という隠れた望みを叶えます。
「人生は自分の思い通りにできる!」と信じたいけど、信じられない方。
体験すれば、わかります。
体験するには、やってみればいいのです。「やってみる」は、ポジティブです。
やってみないと、体験できません。
ポジティブに生きると、人生は自分の思い通りにできます。
「いや、そうは言っても、やっぱり人生はそんなに自由にはならないだろう。」
と、まだまだ反論があるかもしれません。
「できない理由を探す」ことや、「できないという結論を願う」ことは、ネガティブな姿勢です。
ネガティブなので、先ほどの「ネガティブに生きた時」の事実が適用され、おっしゃる通りになります。
しかし、それは「あなたがネガティブな姿勢を選択」すれば、そうなるというだけです。
ネガティブな姿勢を選択しなければ、そうはなりません。
「理屈はわかったけど、急にはポジティブにはなれない」
まず、「理屈はわかった」と、思ってくれたことが、ポジティブです。
いままでの考え方を捨て、譲歩して、歩み寄ってくれたのです。
大丈夫。
ポジティブに関心を持ってくれたら、それでもうOKです。
人生は、自分の思い通りになるのか(2)
さらに、ポジティブでいたほうがいい理由があります。
「ポジティブにとらえると、自分の望みが叶えられる可能性が残ります。」という表現をしました。
「可能性がゼロでないこと」は論理的に考えても確実に言えると思います。
問題はその「可能性の大きさ」です。
結論から言うと、「可能性は『めちゃくちゃ大きい』」のです。
これは、論理では説明ができません。
「観察」や「体験」からそう言うことができます。
自分の望みが叶うよう努力して、それを達成した人は、「可能性が大きい」ことを体験しています。
「やれば、できる!」「努力すれば、自分の望む姿になれる!」と。
これを「成功体験」といいます。
成功体験が、ポジティブな人をよりポジティブにしていきます。
機会ごとに「現実が自分の望む姿になる可能性」はどんどん高まり、実際に夢を叶えるので「夢は叶えられる!」と言います。
それを見ているひとは、「あの人は優秀な特別な人間で、自分とは違う。あの人だから、夢を叶えられた。自分には無理だ。」と言ったりします。
成功した人たちを観察して研究した人は、多くいます。
その観察や研究の結果も本でもインターネットでもたくさん見ることができます。
そこには、どれもこう書いてあります。
成功した人間は、特別なのではない。
「自分はこうなりたい」と強く思ったから、成功した。
だれでも「こうなりたい」と思えば、そのようになれる。
自分の夢が叶う可能性は「めちゃくちゃ大きい」どころでなく、「思考は現実化するのだ」という結論に達しています。
同様に、「自分はこうはなれない」と思えば、その思考も現実化します。
思考は現実化する。
本当でしょうか。
検証して、確かめる価値はあります。
自分の夢を描き「自分はこういうふうになるんだ!」と心の底から思って、その決意を微塵も疑わずにワクワクして生きてみてください。
それで、夢が叶わなければ、「思考は現実化する」というのは嘘であると証明できます。
途中でやめてはだめですよ。
あきらめたら、検証は成立しません。
最後までやりとおして、検証を完遂して下さい。
「ポジティブにとらえると、自分の望みが叶えられる可能性が残ります。」という表現をしました。
「可能性がゼロでないこと」は論理的に考えても確実に言えると思います。
問題はその「可能性の大きさ」です。
結論から言うと、「可能性は『めちゃくちゃ大きい』」のです。
これは、論理では説明ができません。
「観察」や「体験」からそう言うことができます。
自分の望みが叶うよう努力して、それを達成した人は、「可能性が大きい」ことを体験しています。
「やれば、できる!」「努力すれば、自分の望む姿になれる!」と。
これを「成功体験」といいます。
成功体験が、ポジティブな人をよりポジティブにしていきます。
機会ごとに「現実が自分の望む姿になる可能性」はどんどん高まり、実際に夢を叶えるので「夢は叶えられる!」と言います。
それを見ているひとは、「あの人は優秀な特別な人間で、自分とは違う。あの人だから、夢を叶えられた。自分には無理だ。」と言ったりします。
成功した人たちを観察して研究した人は、多くいます。
その観察や研究の結果も本でもインターネットでもたくさん見ることができます。
そこには、どれもこう書いてあります。
成功した人間は、特別なのではない。
「自分はこうなりたい」と強く思ったから、成功した。
だれでも「こうなりたい」と思えば、そのようになれる。
自分の夢が叶う可能性は「めちゃくちゃ大きい」どころでなく、「思考は現実化するのだ」という結論に達しています。
同様に、「自分はこうはなれない」と思えば、その思考も現実化します。
思考は現実化する。
本当でしょうか。
検証して、確かめる価値はあります。
自分の夢を描き「自分はこういうふうになるんだ!」と心の底から思って、その決意を微塵も疑わずにワクワクして生きてみてください。
それで、夢が叶わなければ、「思考は現実化する」というのは嘘であると証明できます。
途中でやめてはだめですよ。
あきらめたら、検証は成立しません。
最後までやりとおして、検証を完遂して下さい。
人生は、自分の思い通りになるのか
この問いの答えは、「YES」です。
この問題を考える時、「ポジティブ/ネガティブ」について考える必要があります。
「ポジティブ/ネガティブ」というのは、「とらえ方」です。
何か出来事が起きた時、ポジティブにとらえたり、ネガティブにとらえたりします。
自分の意志で、自分の選択で、自分の好みで、ポジティブ/ネガティブを決定しています。
とらえ方を決定する前のその出来事自体は、ポジティブでもネガティブでもありません。
どんな出来事も、それ自体はポジティブでもネガティブでもなく、中立です。
ポジティブか、ネガティブかは、自分次第。好きなようにとらえられます。
「起きた出来事」という「現実」と、「自分が望んでいること」との差があるときに、ポジティブ/ネガティブのとらえ方が分かれます。
「ポジティブ」とは、「自分の望む姿に近づきたいという姿勢で、出来事を見る」ことです。
眼の前の現実は、自分の望む姿とは程遠いかもしれません。
それでも、自分の望む姿に近づけたければ、努力することはできます。
ちょっとでも努力をすれば、自分が望む姿になる可能性があります。
ポジティブにとらえると、自分の望みが叶えられる可能性が残ります。
「ネガティブ」とは、「自分の望む姿になることをあきらめようという姿勢で、出来事を見る」ことです。
自分にはどうしようもない何かのせいで望みは叶わないと思っているので、諦めるきっかけにできるものはないかという姿勢で出来事を見ています。あきらめようとしているところなので、現実を自分の望む姿に近づけるような努力をしないか、あるいはほんのちょっとしか努力をしません。
あきらめて努力をしなかったり、ちょっとしか努力をしなければ、自分の望む姿になる可能性はゼロになるでしょう。
ネガティブにとらえたことで、自分の望みが叶えられないことが決定したのです。
「その前に、『自分にはどうしようもない何かのせいでどれだけ望んでもそれは叶わない』のだから、自分のとらえ方は関係ない。」と思うかもしれません。
本当に、『自分にはどうしようもない何か』がありますか?その検証から進めるべきです。
もししっかりと検証できたら、「どうしようもない、というわけではなかった」という結果になるはずです。
その「何か」に対して、ネガティブなとらえ方をしているから「自分ではどうすることもできない」という間違った認識を導きだしていることがわかるはずです。ネガティブなとらえ方は、網のように複雑に絡んでいます。
「ポジティブ/ネガティブ」は、このように言えます。
だから、「ポジティブ思考」でいたほうが良いと思うのです。
2011年02月08日
セルフイメージ
僕は3人兄弟の次男で、兄と弟はスポーツが得意だった。
かけっこでも野球でも縄跳びでも、なにをするのも僕が一番下手だった。
親には「浩二はなにをやってもだめだから」と常に言われていた。
子どもにとって親は世界である。
親のいうことは絶対。
だから、子どもは言われたことをそのまま受け入れる。
僕は自分を「何をやっても駄目な人」だと思っていた。
そのころは、本当につらかった。
世の中、何にもいいことないって思ってた。
小学校に上がっても、友達と何をやっても勝つことはなかった。
しかし、「競争」ではなく「面白いから」という理由で夢中になることは、友達よりも上手になることが、だんだんと出始めた。
一番になったりもした。
僕は「あれ?おかしいな。」と感じていた。
僕は「何をやっても駄目」なんだから、一番になるはずがない。
一番になるのは兄とか弟のような「すごい人達」。
僕のような駄目な人は「すごい人」を羨ましいと思って黙って見てる「その他大勢」だと思っていたから。
成長して、家の中の時間より外にいる時間が増えるにつれて、友達から「浩ちゃんは〜〜が上手ですごいなぁ」「どうしたらそんなに上手になるの?」と言われる事が増えていった。
いつからか、僕は自分が「何をやっても駄目な人」だってことは、忘れてしまった。
ずっと感じていたぬぐいようのないあの辛さも、いつも間にか消えていた。
なぜ僕は変われたのだろう。
僕自身の能力が変わったのか。
多分、違うと思う。
変わったのは「セルフイメージ」だ。
セルフイメージは、自分を創るんだ。
人は、自分が「思い込んでいる姿」になる。
自分を「なにをやっても駄目」って思っていたら、本当に「何をやっても駄目」になるということ。
僕だって、「勝てたらいいな」とは思っていた。
しかし、僕は「駄目な人」なんだ。
「駄目な人」は、勝てないんだ。
どうせ勝てないのにがんばるなんて、バカげたことだろ?
だから、がんばらなかった。
「勝てないから、がんばらない」
僕は、こう考えていた。
しかし、本当は「がんばらないから、勝てない」、だったんだ。
「駄目な人」というセルフイメージを具現化するように行動していたわけだ。
勝負でないことは、上手になった。
勝負でないから負けることはないので、面白かった。
面白いから、「もっと上手になりたい」と思った。
そう思ったら、上手になった。
良いセルフイメージを具現化できたんだ。
セルフイメージは、自分を創る。
セルフイメージを具現化するために必要なことを、意識的にあるいは無意識的にしてしまうんだ。
小さいころは、毎日が辛かった。
なんで僕だけこうなんだ、理不尽じゃないか、と思っていた。
しかし、僕の毎日を辛くしていたのは、「がんばったら上手になり、がんばらなければ上手にならない」という当たり前の原理。
ただそれだけ。
その原理にのっとって、セルフイメージを具現化していた。
「自分は〜〜なんだ」ってのは、ほとんどが思い込みです。
人から言われ続けていたり、強烈な出来事を体験したりして、自分の中に出来上がった幻想。
その幻想にまどわされて、本当の自分が見えていないんだよ。
信じられない?
んー、根拠がほしいなら、すぐ手に入る。
なんてことはないから、自分で探してくれ。
本当の自分の姿は、セルフイメージとは全然違うんだ。
本当の自分は、だれもが可能性に満ちあふれている。
それなのに、幻想は現実になってしまう。
自分をセルフイメージ通りの人間にしてしまう。
ネガティブなセルフイメージは、自分を制限する。
ポジティブなセルフイメージは、自分の本来の能力を引き出す。
だから、セルフイメージを利用しよう。
自分を「すごいヤツ」と思いこむんだ。
イカした幻想を持とう。
妄想みたいだって構うことはない。
人に言う必要もないし、どうせタダだし!
その時、ネガティブなセルフイメージが邪魔をするだろう。
「思いこむだけでうまく行くなんて、あるわけないじゃないか」
そんなときは、ワクワクしよう。
僕の、コンクリートのように固かった「駄目な人」というセルフイメージは、面白いことに夢中になってめちゃくちゃワクワクしていたら、ガタガタボロボロ崩れていったよ。
自分のしたいこと、なりたい姿、ワクワクする希望をイメージして、自分がすでにそうだと思い込もう。
その思い込みが強いほど、現実化する力は強い。
紙に書いて、言葉に出して、繰り返し、繰り返し。
親や友達に言われ続けたよりも、もっとたくさん自分に言い聞かせて、自分の中にポジティブなセルフイメージを植え付けよう。
「いやぁ、自分なんてそんな大それた・・・」なんて謙遜は無用だ。
謙遜も、セルフイメージを作るよ。
「でも、ほんとに大したことない人間だし・・・」
くどい!!笑
セルフイメージに左右されるのではなく、セルフイメージを利用する人生を送りたくないか??
どちらも、君の選択次第。
自由意思で選べるんだ。
君はどっちになりたい?
「本当に自分もセルフイメージを利用できるのかなぁ」
それもセルフイメージだよ。
そいつを追っ払おう!!
いいかい?
君は、素敵な人なんだ。
本当だよ。
強くて、優しくて、美しくて。
誰をも魅了する、素敵な人だよ。
自分ではそれに気づいていないだけ。
でも、気づいていないと、その通りの自分になってしまう。
ただ、気づきさえすればいいんだよ。
何の準備もいらない。
君という素敵な人が、本来の魅力をあふれさせてくれれば、それだけでたくさんの人が幸せになるよ。
だから、自分を信じて。
お願いだから、自分を信じて。
お願いだから、僕を信じて。
かけっこでも野球でも縄跳びでも、なにをするのも僕が一番下手だった。
親には「浩二はなにをやってもだめだから」と常に言われていた。
子どもにとって親は世界である。
親のいうことは絶対。
だから、子どもは言われたことをそのまま受け入れる。
僕は自分を「何をやっても駄目な人」だと思っていた。
そのころは、本当につらかった。
世の中、何にもいいことないって思ってた。
小学校に上がっても、友達と何をやっても勝つことはなかった。
しかし、「競争」ではなく「面白いから」という理由で夢中になることは、友達よりも上手になることが、だんだんと出始めた。
一番になったりもした。
僕は「あれ?おかしいな。」と感じていた。
僕は「何をやっても駄目」なんだから、一番になるはずがない。
一番になるのは兄とか弟のような「すごい人達」。
僕のような駄目な人は「すごい人」を羨ましいと思って黙って見てる「その他大勢」だと思っていたから。
成長して、家の中の時間より外にいる時間が増えるにつれて、友達から「浩ちゃんは〜〜が上手ですごいなぁ」「どうしたらそんなに上手になるの?」と言われる事が増えていった。
いつからか、僕は自分が「何をやっても駄目な人」だってことは、忘れてしまった。
ずっと感じていたぬぐいようのないあの辛さも、いつも間にか消えていた。
なぜ僕は変われたのだろう。
僕自身の能力が変わったのか。
多分、違うと思う。
変わったのは「セルフイメージ」だ。
セルフイメージは、自分を創るんだ。
人は、自分が「思い込んでいる姿」になる。
自分を「なにをやっても駄目」って思っていたら、本当に「何をやっても駄目」になるということ。
僕だって、「勝てたらいいな」とは思っていた。
しかし、僕は「駄目な人」なんだ。
「駄目な人」は、勝てないんだ。
どうせ勝てないのにがんばるなんて、バカげたことだろ?
だから、がんばらなかった。
「勝てないから、がんばらない」
僕は、こう考えていた。
しかし、本当は「がんばらないから、勝てない」、だったんだ。
「駄目な人」というセルフイメージを具現化するように行動していたわけだ。
勝負でないことは、上手になった。
勝負でないから負けることはないので、面白かった。
面白いから、「もっと上手になりたい」と思った。
そう思ったら、上手になった。
良いセルフイメージを具現化できたんだ。
セルフイメージは、自分を創る。
セルフイメージを具現化するために必要なことを、意識的にあるいは無意識的にしてしまうんだ。
小さいころは、毎日が辛かった。
なんで僕だけこうなんだ、理不尽じゃないか、と思っていた。
しかし、僕の毎日を辛くしていたのは、「がんばったら上手になり、がんばらなければ上手にならない」という当たり前の原理。
ただそれだけ。
その原理にのっとって、セルフイメージを具現化していた。
「自分は〜〜なんだ」ってのは、ほとんどが思い込みです。
人から言われ続けていたり、強烈な出来事を体験したりして、自分の中に出来上がった幻想。
その幻想にまどわされて、本当の自分が見えていないんだよ。
信じられない?
んー、根拠がほしいなら、すぐ手に入る。
なんてことはないから、自分で探してくれ。
本当の自分の姿は、セルフイメージとは全然違うんだ。
本当の自分は、だれもが可能性に満ちあふれている。
それなのに、幻想は現実になってしまう。
自分をセルフイメージ通りの人間にしてしまう。
ネガティブなセルフイメージは、自分を制限する。
ポジティブなセルフイメージは、自分の本来の能力を引き出す。
だから、セルフイメージを利用しよう。
自分を「すごいヤツ」と思いこむんだ。
イカした幻想を持とう。
妄想みたいだって構うことはない。
人に言う必要もないし、どうせタダだし!
その時、ネガティブなセルフイメージが邪魔をするだろう。
「思いこむだけでうまく行くなんて、あるわけないじゃないか」
そんなときは、ワクワクしよう。
僕の、コンクリートのように固かった「駄目な人」というセルフイメージは、面白いことに夢中になってめちゃくちゃワクワクしていたら、ガタガタボロボロ崩れていったよ。
自分のしたいこと、なりたい姿、ワクワクする希望をイメージして、自分がすでにそうだと思い込もう。
その思い込みが強いほど、現実化する力は強い。
紙に書いて、言葉に出して、繰り返し、繰り返し。
親や友達に言われ続けたよりも、もっとたくさん自分に言い聞かせて、自分の中にポジティブなセルフイメージを植え付けよう。
「いやぁ、自分なんてそんな大それた・・・」なんて謙遜は無用だ。
謙遜も、セルフイメージを作るよ。
「でも、ほんとに大したことない人間だし・・・」
くどい!!笑
セルフイメージに左右されるのではなく、セルフイメージを利用する人生を送りたくないか??
どちらも、君の選択次第。
自由意思で選べるんだ。
君はどっちになりたい?
「本当に自分もセルフイメージを利用できるのかなぁ」
それもセルフイメージだよ。
そいつを追っ払おう!!
いいかい?
君は、素敵な人なんだ。
本当だよ。
強くて、優しくて、美しくて。
誰をも魅了する、素敵な人だよ。
自分ではそれに気づいていないだけ。
でも、気づいていないと、その通りの自分になってしまう。
ただ、気づきさえすればいいんだよ。
何の準備もいらない。
君という素敵な人が、本来の魅力をあふれさせてくれれば、それだけでたくさんの人が幸せになるよ。
だから、自分を信じて。
お願いだから、自分を信じて。
お願いだから、僕を信じて。
2011年01月14日
有名な「鏡の法則」の話
相手が無礼な態度で接したら、その人は「なんて無礼な」と思い無礼な態度で返します。
相手が礼儀正しい態度で接したら、その人は「礼儀正しくしてくれたから」と礼儀正しい態度で返します。
この人は「無礼な人」ですか、それても「礼儀正しい人」ですか?
本来は礼儀正しい人だ。でも相手が無礼ならば、礼儀正しくする必要はない。」と答えるかもしれない。
しかし、見方を変えればこういえる。
「相手の無礼な態度が、その人の中にあった無礼を引き出した。」
できるならいつも礼儀正しくいたいですよね。
でも、これが普通のコミュニケーションです。
相手の態度によって自分の態度も変えらてしまう。
有名な「鏡の法則」です。
鏡の法則で、
「無礼な相手には無礼な自分で」
「わがままな相手にはわがままな自分で」
「心を開かない相手には心を開かない自分で」対応をしてしまいます。
自分の態度を相手に変えられて、本来の自分でない自分が出てきてしまう。
自分にとっては「本来の自分でない自分」と思っていても、他人から見たら「あの人はああいう人なんだ」と思う。
あなたも他の人をそういうふうに見ている。
「あの人は無礼だな」と思う時。
ひょっとしたら、自分の態度が相手のその部分を引き出しているのかもしれない。
鏡の法則があるから。
ここはひとつ賢くなって、鏡の法則を活用してみましょう。
こちらの態度で、相手の態度を変えてみませんか。
「無礼な方」が、相手に無礼な態度を取られたら「もっと無礼にな態度」になるでしょう。絶対。
しかし、無礼な態度の相手に対して、心をこめて礼儀を返したら。
少なくとも、無礼な態度で返した時よりは、ましになる可能性がありませんか。
鏡の法則のことを知ってから何度か実験の機会がありましたが、結果は・・・。
やはり、鏡の法則は本当でした。
それが僕の実感です。
嫌いな人、腹の立つ人ほど、変わってくれた時はいい人になってくれます。心を開いてもらえれば、誰もみんないい人です。
そして、そういう人は周りの人の態度を鏡の法則で返しているうちに自分からも良くない態度を発信してまた鏡の法則で自分に返されそれをまた返し、ドツボにハマって苦しんでいる。
苦しいから、良くない態度で自分を守っているんだな、と思うようになりました。
習慣で増幅されているけど、きっかけは些細なことなんです。
弱い自分を守っているだけで、悪人なのではありません。
そして、僕自身も悪人ではないけど、きっと気づいていない同じような部分を持っている・・・・。
それに気づけたことが、最大の成果かな。
ただ、注意しなければいけない事があります。
それは「表面的な礼儀」です。
「この人は無礼な人間だから、こちらが礼儀を尽くしても無駄だ」と思いながら表面的に礼儀を尽くしても、相手の態度は変わりません。
表面的には礼儀正しくても、心の中は「無礼」でいる。
もし相手にこういう態度をされたら、どう思いますか。普通、もっと怒りますよね。
鏡の法則で、表面的な礼儀は相手をもっと無礼にします。
「表面的な礼儀」は、「いちおう礼を尽くしいてる」のではなく「無礼」です。
本人は心の中を隠せていると思っていますが、鏡の法則に対して心を隠すことはできません。
表面的に礼儀正しい人は、表面を大事にしているからそのように振る舞います。表面に出ない(と思っている)心の中は無法地帯なので、そこに闇があれば闇は深くなります。
鏡の法則を知らなければ、法則に振り回され自分では気づかないうちに、相手と同じ行動をしてしまいます。
鏡の法則を知れば、相手の態度に振り回されるのを自分の力で止めることも、逆に活用することもできます!!
「鏡の法則」を活用して、素敵な世界を作りましょう。
相手が礼儀正しい態度で接したら、その人は「礼儀正しくしてくれたから」と礼儀正しい態度で返します。
この人は「無礼な人」ですか、それても「礼儀正しい人」ですか?
本来は礼儀正しい人だ。でも相手が無礼ならば、礼儀正しくする必要はない。」と答えるかもしれない。
しかし、見方を変えればこういえる。
「相手の無礼な態度が、その人の中にあった無礼を引き出した。」
できるならいつも礼儀正しくいたいですよね。
でも、これが普通のコミュニケーションです。
相手の態度によって自分の態度も変えらてしまう。
有名な「鏡の法則」です。
鏡の法則で、
「無礼な相手には無礼な自分で」
「わがままな相手にはわがままな自分で」
「心を開かない相手には心を開かない自分で」対応をしてしまいます。
自分の態度を相手に変えられて、本来の自分でない自分が出てきてしまう。
自分にとっては「本来の自分でない自分」と思っていても、他人から見たら「あの人はああいう人なんだ」と思う。
あなたも他の人をそういうふうに見ている。
「あの人は無礼だな」と思う時。
ひょっとしたら、自分の態度が相手のその部分を引き出しているのかもしれない。
鏡の法則があるから。
ここはひとつ賢くなって、鏡の法則を活用してみましょう。
こちらの態度で、相手の態度を変えてみませんか。
「無礼な方」が、相手に無礼な態度を取られたら「もっと無礼にな態度」になるでしょう。絶対。
しかし、無礼な態度の相手に対して、心をこめて礼儀を返したら。
少なくとも、無礼な態度で返した時よりは、ましになる可能性がありませんか。
鏡の法則のことを知ってから何度か実験の機会がありましたが、結果は・・・。
やはり、鏡の法則は本当でした。
それが僕の実感です。
嫌いな人、腹の立つ人ほど、変わってくれた時はいい人になってくれます。心を開いてもらえれば、誰もみんないい人です。
そして、そういう人は周りの人の態度を鏡の法則で返しているうちに自分からも良くない態度を発信してまた鏡の法則で自分に返されそれをまた返し、ドツボにハマって苦しんでいる。
苦しいから、良くない態度で自分を守っているんだな、と思うようになりました。
習慣で増幅されているけど、きっかけは些細なことなんです。
弱い自分を守っているだけで、悪人なのではありません。
そして、僕自身も悪人ではないけど、きっと気づいていない同じような部分を持っている・・・・。
それに気づけたことが、最大の成果かな。
ただ、注意しなければいけない事があります。
それは「表面的な礼儀」です。
「この人は無礼な人間だから、こちらが礼儀を尽くしても無駄だ」と思いながら表面的に礼儀を尽くしても、相手の態度は変わりません。
表面的には礼儀正しくても、心の中は「無礼」でいる。
もし相手にこういう態度をされたら、どう思いますか。普通、もっと怒りますよね。
鏡の法則で、表面的な礼儀は相手をもっと無礼にします。
「表面的な礼儀」は、「いちおう礼を尽くしいてる」のではなく「無礼」です。
本人は心の中を隠せていると思っていますが、鏡の法則に対して心を隠すことはできません。
表面的に礼儀正しい人は、表面を大事にしているからそのように振る舞います。表面に出ない(と思っている)心の中は無法地帯なので、そこに闇があれば闇は深くなります。
鏡の法則を知らなければ、法則に振り回され自分では気づかないうちに、相手と同じ行動をしてしまいます。
鏡の法則を知れば、相手の態度に振り回されるのを自分の力で止めることも、逆に活用することもできます!!
「鏡の法則」を活用して、素敵な世界を作りましょう。
2010年12月28日
名家
僕は関東地方の出身だが、僕の町にも名家というのがあった。
昭和の初めごろに商売で財をなし、県議会議員や貴族委員議員を輩出し、僕が子どものころには多角経営で「あの会社も、この会社も」その家の系列だった。当時の家は町の文化財になっていて、小学生が社会科見学をするルートになっている。
その家の当主さんに気にいられなければ市長にもなれないし、銀行は融資のに審査せず通したという話だ。
その方が亡くなったとき、親戚は一斉に相続放棄をした。
「あの会社も、この会社も」という膨大な資産があったわけだが、借金はそれよりも多く返せるあてもなかったということだ。
良くある話なのかもしれないけど、これはどういうことだろう。
すぐにわかるのは「その時の当主は経営に失敗していた」ということ。
ということは、融資は焦げ付いたわけだ。
銀行はどういうつもりだったのだろう。
審査もせず融資を通したということは、この名家のビジネスなら政治家も誰も味方だから失敗するわけがない、という予測だったのか。さらに、失敗するわけがないし恩を売っておくことがその後のメリットになると思ったのかもしれない。
「その家の当主さんに気にいられなければ市長にもなれない」のであれば、政治家はこの家の意向を汲んだ方向性でないと政治活動ができなかったかもしれない。裏を返せば、そうすれば当選できる、ってことだ。
銀行に対しても政治に対してもそのくらいのちからを持っていた。
その力を、どのように使っのだろう。
銀行にも政治にも影響力を持って地域を活性化して豊かにしようと、自社の経営も犠牲にして尽力していたのか。
そうであれば、地域から尊敬される「さすが名家だ」と言えるだけの家だと思う。
家族は相続放棄をした。
バブル崩壊もあったとはいえ生前から負債を返せる可能性がないことを親族がしっていたなら、手を打つべきだ。手放すべきものを手放し、縮小するべきものは縮小して、全額返せないにしても返せるだけは返して立て直しを計るのが誠意だろう。しかし、生前に売却や縮小の動きは一切なかった。
負債を返せるあてもないので、相続放棄という手段で解決をしようとしたのか。
であれば、親族たちには自分たちは身を切らずに債権者にだけ痛みを引き受けてもらおうという意志があったことになる。
他の人間にはどんなにダメージがあってもかまわない。
地域のことなんてこれっぽっちも考えていない。
名家の力を使ってしたのは、誠意を尽くすことではなく自分たち一族を守ることだった。
あるいは、経済状態を知っていたのは当主と一部の人間だけで、親族は当主が亡くなるまで負債や経済状態の全容をしらなかったのかもしれない。
親族のことを思えば「もうウチの経済状態はこれこれこうだから、自分で生きて行く道を探してくれ」と言っておくべきだろう。
亡くなってふたを開けたら名家の経済状態は破たんおり、資産を期待していた親族は裏切られた。もちろん銀行も裏切られた。
であれば、名家の力をつかって守ろうとしていたのは当主のメンツだけ。
「ウチはこうなっちゃったから縮小します」なんて恥ずかしいことは言えないし、それでその後親族がどうなってもかまわない。
亡くなれば暴かれることだけど、死んだあとなら関係ない。
生きている間にメンツが保てればよかった・・・・のかもしれない。
どっちにしたって、こどものころから「○○さんはりっぱな家だ」なんていい聞かされたあの家は、結局自分がまわりからへいこらされることしか考えていないしょーもない当主or家だった、ってわけだ。
銀行も政治家も、自分の利益のために○○さんに近寄って裏切られたが、それは自業自得。
融資の際に審査をすればよかった話だし、有力者の意向を汲むことで当選しようとせず自分の理念を貫けば良かっただけの話。おいしい思いが続かなくて残念でした。
親族は、一般の家だったらないはずの資産をあてにしていた分だけのダメージを受けただろう。
あてにしていなければNO DAMAGEです。
どんなに栄えた家や会社も、斜陽になっていくことは当然のようにある。
栄枯盛衰だ。
そうなったとき、かつての栄光・威厳だけは保ちたいのだろう。
その栄光・威厳が「金があったから」うまれたものであれば、それらを保つために金があるふりをし続けなければいけない。
金がある、力があることのおこぼれを期待してよってくるやつらはかならずいる。
そいつらにおこぼれをあげないで「あそこはもうだめらしいぞ」と噂が立つのを恐れて金もないのにおこぼれを与え続ける。
金で栄光・威厳を買っているわけだ。
金がないのに金で栄光・威厳を買い続け負債は膨らみ、破たんした時には膨大な損害を発生させ大問題になる。
その大問題の根源は、栄光・威厳を保ちたいという気持ち。
つまり、ただの「見栄」だ。
当主の見栄を張り続けたいチンケな気持ちが、おこぼれをいただこうとしたやつらの欲を含んで雪だるま式にでっかくなって、亡くなった時点で崩壊しただけだの話だ。
自分や家のメンツなんかより誰かに迷惑をかけてはいけないという当然の誠実さを大事にしていれば起こらなかった話だ。
あーーーあ、なさけねぇ。
名家かどうかを家柄とか血筋とかで判断するのは、そこの「見栄張りちゃん」に協力することです。本人はさぞご満悦だしひょっとしたらおいしいおこぼれもあるかもしれないし、別にいいですけど。
でも、続く保証がないことを理解していないと連鎖倒産するよ。
本当の名家ってなんだ?
「家の誇りをまもる」っていいながら、「自分は何もしてないけどあの人らのように人から良く思われ続けたい」って思ってない?
立派かどうかは、その人間が今何をしているかで判断するものじゃないの?
自分が立派かどうかは、自分がなにをするかで決まるんじゃないの?
人から立派に思われたいから、いろいろひずみが出てきてるんじゃないの?
まず、なんで名家になりたいか、考えたことある?
えー、この話は、フィクションです。
実在の人物とは一切マッタク全然関係ありません(笑)
昭和の初めごろに商売で財をなし、県議会議員や貴族委員議員を輩出し、僕が子どものころには多角経営で「あの会社も、この会社も」その家の系列だった。当時の家は町の文化財になっていて、小学生が社会科見学をするルートになっている。
その家の当主さんに気にいられなければ市長にもなれないし、銀行は融資のに審査せず通したという話だ。
その方が亡くなったとき、親戚は一斉に相続放棄をした。
「あの会社も、この会社も」という膨大な資産があったわけだが、借金はそれよりも多く返せるあてもなかったということだ。
良くある話なのかもしれないけど、これはどういうことだろう。
すぐにわかるのは「その時の当主は経営に失敗していた」ということ。
ということは、融資は焦げ付いたわけだ。
銀行はどういうつもりだったのだろう。
審査もせず融資を通したということは、この名家のビジネスなら政治家も誰も味方だから失敗するわけがない、という予測だったのか。さらに、失敗するわけがないし恩を売っておくことがその後のメリットになると思ったのかもしれない。
「その家の当主さんに気にいられなければ市長にもなれない」のであれば、政治家はこの家の意向を汲んだ方向性でないと政治活動ができなかったかもしれない。裏を返せば、そうすれば当選できる、ってことだ。
銀行に対しても政治に対してもそのくらいのちからを持っていた。
その力を、どのように使っのだろう。
銀行にも政治にも影響力を持って地域を活性化して豊かにしようと、自社の経営も犠牲にして尽力していたのか。
そうであれば、地域から尊敬される「さすが名家だ」と言えるだけの家だと思う。
家族は相続放棄をした。
バブル崩壊もあったとはいえ生前から負債を返せる可能性がないことを親族がしっていたなら、手を打つべきだ。手放すべきものを手放し、縮小するべきものは縮小して、全額返せないにしても返せるだけは返して立て直しを計るのが誠意だろう。しかし、生前に売却や縮小の動きは一切なかった。
負債を返せるあてもないので、相続放棄という手段で解決をしようとしたのか。
であれば、親族たちには自分たちは身を切らずに債権者にだけ痛みを引き受けてもらおうという意志があったことになる。
他の人間にはどんなにダメージがあってもかまわない。
地域のことなんてこれっぽっちも考えていない。
名家の力を使ってしたのは、誠意を尽くすことではなく自分たち一族を守ることだった。
あるいは、経済状態を知っていたのは当主と一部の人間だけで、親族は当主が亡くなるまで負債や経済状態の全容をしらなかったのかもしれない。
親族のことを思えば「もうウチの経済状態はこれこれこうだから、自分で生きて行く道を探してくれ」と言っておくべきだろう。
亡くなってふたを開けたら名家の経済状態は破たんおり、資産を期待していた親族は裏切られた。もちろん銀行も裏切られた。
であれば、名家の力をつかって守ろうとしていたのは当主のメンツだけ。
「ウチはこうなっちゃったから縮小します」なんて恥ずかしいことは言えないし、それでその後親族がどうなってもかまわない。
亡くなれば暴かれることだけど、死んだあとなら関係ない。
生きている間にメンツが保てればよかった・・・・のかもしれない。
どっちにしたって、こどものころから「○○さんはりっぱな家だ」なんていい聞かされたあの家は、結局自分がまわりからへいこらされることしか考えていないしょーもない当主or家だった、ってわけだ。
銀行も政治家も、自分の利益のために○○さんに近寄って裏切られたが、それは自業自得。
融資の際に審査をすればよかった話だし、有力者の意向を汲むことで当選しようとせず自分の理念を貫けば良かっただけの話。おいしい思いが続かなくて残念でした。
親族は、一般の家だったらないはずの資産をあてにしていた分だけのダメージを受けただろう。
あてにしていなければNO DAMAGEです。
どんなに栄えた家や会社も、斜陽になっていくことは当然のようにある。
栄枯盛衰だ。
そうなったとき、かつての栄光・威厳だけは保ちたいのだろう。
その栄光・威厳が「金があったから」うまれたものであれば、それらを保つために金があるふりをし続けなければいけない。
金がある、力があることのおこぼれを期待してよってくるやつらはかならずいる。
そいつらにおこぼれをあげないで「あそこはもうだめらしいぞ」と噂が立つのを恐れて金もないのにおこぼれを与え続ける。
金で栄光・威厳を買っているわけだ。
金がないのに金で栄光・威厳を買い続け負債は膨らみ、破たんした時には膨大な損害を発生させ大問題になる。
その大問題の根源は、栄光・威厳を保ちたいという気持ち。
つまり、ただの「見栄」だ。
当主の見栄を張り続けたいチンケな気持ちが、おこぼれをいただこうとしたやつらの欲を含んで雪だるま式にでっかくなって、亡くなった時点で崩壊しただけだの話だ。
自分や家のメンツなんかより誰かに迷惑をかけてはいけないという当然の誠実さを大事にしていれば起こらなかった話だ。
あーーーあ、なさけねぇ。
名家かどうかを家柄とか血筋とかで判断するのは、そこの「見栄張りちゃん」に協力することです。本人はさぞご満悦だしひょっとしたらおいしいおこぼれもあるかもしれないし、別にいいですけど。
でも、続く保証がないことを理解していないと連鎖倒産するよ。
本当の名家ってなんだ?
「家の誇りをまもる」っていいながら、「自分は何もしてないけどあの人らのように人から良く思われ続けたい」って思ってない?
立派かどうかは、その人間が今何をしているかで判断するものじゃないの?
自分が立派かどうかは、自分がなにをするかで決まるんじゃないの?
人から立派に思われたいから、いろいろひずみが出てきてるんじゃないの?
まず、なんで名家になりたいか、考えたことある?
えー、この話は、フィクションです。
実在の人物とは一切マッタク全然関係ありません(笑)
2010年11月16日
こころを差し出す
所用で山口県山口市湯田温泉を訪れ、山口市出身の詩人金子みすずさんに関する講演を聞きました。
僕は金子みすずさんのことは全く知りませんでしたが、最近すごく評価されている方だそうです。みなさんご存知ですか?
いくつもの素晴らしい詩が紹介されましたが、その中に「さびしいとき」というのがありました。
「さびしいとき
わたしがさびしいときに、
よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、
お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、
お母さんはやさしいの。
わたしがさびしいときに、
ほとけさまはさびしいの。」
さびしい「わたし」の周りにいるひとたちの、「わたし」との関わり方を表現しています。
「わたし」から一番遠いのは「よそのひと」。
「ともだち」は、さびしい「わたし」を元気づけようとわらってくれます。
「おかあさん」は、さびしい「わたし」にやさしくしてくれます。
「ほとけさま」は、「わたし」がさびしいといっしょにさびしい気持ちになってくれます。
みな、善意で「わたし」と接してくれていますが、いちばんこころに寄り添ってくれて、「わたし」を理解してくれるのは、「ほとけさま」の関わり方。
共感してもらえることは、一番安心できることでしょう。
例えば、さびしいだれかに「さびしいなら、コレコレをするといいよ!」と解決案を提示したとします。
しかし、心に寄り添ってくれていない人の話は、受け入れられないものです。どんなにその解決案が名案でも。
そして、受け入れてくれない相手に、「こうすればさびしくなくなるって、せっかく教えてあげたのに。聞き入れないなら、この先ずっとさびしくても自業自得だな!」なんて、不満を持ってしまう。
僕は、これをよくやってしまいます。トホホ。
そういう時の僕はきっと、
さびしいだれかの役に立ちたいのではなく、
他のことが目的になっているんだと思います。
自分の知識を使ってみたい、という好奇心だったり。
「おかげで解決しました」って言ってもらいたいエゴだったり。
さびしいひとや、こまっているひとを助けるには、解決策(知識)を差し出すことも大事ですが、もっと大事なのは心を差し出すこと。
困っているだれかの心に、じぶんの心を差し出す。
それが、「愛」ですっ。
愛を差し出すことができたら、知識が相手を救うかもしれない。
愛なしに押しつける知識は、ときに相手を苦しめるのかもしれない。
そして、行動も、相手を救えると思う。
きっと、行動は、愛なんだ。
なーんて、足湯につかりながら考えてしまいましたっ。
ガハハハハーーーー。
僕は金子みすずさんのことは全く知りませんでしたが、最近すごく評価されている方だそうです。みなさんご存知ですか?
いくつもの素晴らしい詩が紹介されましたが、その中に「さびしいとき」というのがありました。
「さびしいとき
わたしがさびしいときに、
よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、
お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、
お母さんはやさしいの。
わたしがさびしいときに、
ほとけさまはさびしいの。」
さびしい「わたし」の周りにいるひとたちの、「わたし」との関わり方を表現しています。
「わたし」から一番遠いのは「よそのひと」。
「ともだち」は、さびしい「わたし」を元気づけようとわらってくれます。
「おかあさん」は、さびしい「わたし」にやさしくしてくれます。
「ほとけさま」は、「わたし」がさびしいといっしょにさびしい気持ちになってくれます。
みな、善意で「わたし」と接してくれていますが、いちばんこころに寄り添ってくれて、「わたし」を理解してくれるのは、「ほとけさま」の関わり方。
共感してもらえることは、一番安心できることでしょう。
例えば、さびしいだれかに「さびしいなら、コレコレをするといいよ!」と解決案を提示したとします。
しかし、心に寄り添ってくれていない人の話は、受け入れられないものです。どんなにその解決案が名案でも。
そして、受け入れてくれない相手に、「こうすればさびしくなくなるって、せっかく教えてあげたのに。聞き入れないなら、この先ずっとさびしくても自業自得だな!」なんて、不満を持ってしまう。
僕は、これをよくやってしまいます。トホホ。
そういう時の僕はきっと、
さびしいだれかの役に立ちたいのではなく、
他のことが目的になっているんだと思います。
自分の知識を使ってみたい、という好奇心だったり。
「おかげで解決しました」って言ってもらいたいエゴだったり。
さびしいひとや、こまっているひとを助けるには、解決策(知識)を差し出すことも大事ですが、もっと大事なのは心を差し出すこと。
困っているだれかの心に、じぶんの心を差し出す。
それが、「愛」ですっ。
愛を差し出すことができたら、知識が相手を救うかもしれない。
愛なしに押しつける知識は、ときに相手を苦しめるのかもしれない。
そして、行動も、相手を救えると思う。
きっと、行動は、愛なんだ。
なーんて、足湯につかりながら考えてしまいましたっ。
ガハハハハーーーー。